追想録(3/11、12)

【3月11日(金)〜12日(土)(小学校)】
海岸部に向かう消防車のサイレンを耳に、学校に到着すると、校庭一杯に車が整列され、校舎の教室・廊下には自宅に住めなくなった方、また、余震・津波を警戒した方、約1500名が避難していました。

すっかり日も落ち暗くなった職員室に行くと、区の職員2名と学校就業に引き続き避難所を開設した校長先生以下約20名の先生が調整中でしたが、小生が頼りにしていた防災無線は通じず、今後の指示等はわからないとのこと。

ラジオで津波が区役所まで到達したと放送もあり、区の方に質問すると区役所は健在でした。

おそらく伝統ある堀を津波が区役所まで遡上したことだったのでしょうね。


懐中電灯の光に灯され間もなく始められた校長先生主催の会議には、一部周辺町内会の方々も参加して、避難者の教室ごとの把握と学校に備蓄してある飲料水と乾パンが配られることになりました。

翌朝にはアルファ米を炊き出すことになったものの、小学校は断水のため一時その実行が懸念されましたが、近傍のコミニュティーセンターで水道が出ていたので解決されました。


ここには、小・中学校時代の同級生、近所のおば様方も多数避難しており
「私たちってこれから何を頼りに行動すればいいの?」
「いまどういう状況なのかしら。ここは安全なの?」という情報の欠如による先行きの不安と恐れを感じている方が多くいました。

一応、職歴上、頭の中には阪神・淡路大震災中越地震の教訓に基づく、震災後の白紙的一般状況と救援・救助〜復旧までの推移(シナリオ)が入っていますから、ラジオとワンセグTVで収集した事項を踏まえ、少しでも不安感を払拭するよう情報を提供しましたが、区の職員の方がハンドマイクを手にそれぞれの教室等を回って、知りえる情報と今夜から明日にかけての行動等について広報してくれましたので、みなさんだいぶ安心されたようでした。

周辺町内の方々は、地震の影響で戸が閉まらないまま留守のお宅もあったため、霞目駐屯地周辺の被害の大きい地区を、盗難等防止のためにグループで自主的に巡回していました。


途中、自衛隊にはあれだけ人がいるのに炊き出しに一人も来ない、そのために普段高い税金で雇っているんだろう、とおっしゃられた方がおられましたので、発災後、雪と寒さに震え、首まで水につかったまま、あるいは倒壊家屋の下敷きになり恐怖と苦しみに耐えている、年端のいかぬ子供を含む被災者の方々を一刻も早く一人でも多く救うため、生死を分けるのは72時間であるとの経験則から、隊員たちが食も休みもとらずに救援活動にあたっていることを説明しました。

家族を失い、自宅を津波で失いながらも直ちに登庁し、災害派遣に出続けている警察・消防・自衛隊・海保等の隊員も多くいるのです。

私のかつて所属した中隊の実直で責任感の強い若い隊員も、転属前の休暇中、出動せんと駐屯地に向かう車の中で波にのまれ亡くなりました。


夜、東部自動車道路の西側でも水が引いていません。
地上では赤色灯が闇にひかり、上空ではヘリコプターが飛び続けています。まだ、多くの方が水につかりながら救助を待っていました。