追想録(3/12 ③ )

【3月12日(土)明け方〜沿岸から4Kmの某小学校の状況】

校庭にはほぼびっしりとエンジンをかけたままの車が、しかし概ね整頓されて駐車しています。

外は体感温度5°位(予想)の寒さでしたが、校舎の中は廊下にまであふれる避難者の体温によるため幾分寒さをしのげる状態でした。

大きな余震が起きるたび、どよめきがでます。

「この建物は安全なんでしょうか?」とよく聞かれます。

「耐震工事が終わったばかりのコンクリート構築物だから、揺れにも、万一の津波にも家にいるよりは安全ですよ。」と回答。


やけどをしたおばあさんが家族により運び込まれてきました。やはり皆、学校避難所を頼りにやってきます。

ストーブで沸かしてあったやかんのお湯を腿下部からひざ下にかけて痛々しく皮がすっかり赤くむけての熱傷です。区の保健士が保健室で応急手当。電話は通じません。私有車での後送となりました。



避難所には避難者に比して、十分な水と食料、毛布等は備蓄されていませんでしたが、最終的に校長先生のご判断で、空腹と渇きを軽減させるため、震災初日の夜中にクラッカーと水が配分され、朝はアルファ米を配分することに決せられましたので、明け方にかる暗闇の中、アルファ米の炊き出し準備で奔走です。

避難所小学校周辺は断水していました。しかし、幸い同学区内のコミュニティセンター等では水が出ていましたので、先生方?が水を汲むため、非常用クラッカーが入っていた一斗缶を私有車に積載し始めた前後、地元消防団が炊き出し用の大ガマを持ってきてくれました。

また、農家の方々が軽トラックで大だるに満たされた水と私物の米を運んできてくれます。小学校避難所の困窮を聞きつけての自主的な行動です。

発電機による灯光器と車の明かりに照らし出され、炊き出しが動き出しました。まずは安心です。



最近の携帯電話の電池は切れるのが早い上、寒さが厳しいため、電力回復の見通しが全く立たない今、電話の使用は最小限にしなければなりません。
ワンセグによる情報は津波のおそるべき威力を何度も映し、ビジュアルによる理解を促進させましたが、電力の節用ため限定的な使用にならざるを得ません。

避難所としての情報は絶対的に不足していたと感じます。夜が明けたので、若干の危険を感じつつ、近傍の被害情報の収集に出かけました。

海により近い某小学校に行くと、5〜600m先まで冠水しています。目と鼻の先です。ちょうど校門の前に校長先生がおられ東をにらんでいます。
消防から津波情報が入ったとのことで、避難者全員を校舎2階以上に退避させた後だったのです。ここでも校長先生が陣頭指揮を執っておられました。

中に入ると約2000人以上の避難者がひしめいていましたが、活動に組織性が感じられましたし、校内の方々も冷静だったので、知りえた被害、ライフラインと隣接学校の状況等に関する情報交換をして別れました。
ここでも情報が不足・錯綜しているようでした。